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10月
三年一科 迎王平安祭典

百年続く信仰の祭典、神威の練り歩きで安寧を祈り、地域が一つになって王駕を迎え福を招く

迎王平安祭典バナー

迎王平安祭は東港、小琉球エリアで三年に一度催される祭事です。台湾の王爺信仰は伝統的な祭典の中でも非常に重要な地位を占めています。祭儀は古礼に則って行なわれ、神輿の巡礼や陣頭(神様の山車)、王船を見ることができます。迎王平安祭典の時期に東港や小琉球を訪れる機会がございましたら、ぜひ濃厚な郷土文化を体験してみてください。

迎王祭典の由来

「迎王平安祭典」の重要な目的は、神々の神威によりこの土地の邪悪なものや疫病など汚らわしいものを取り除き、人々が健康で平安に暮らせるように祈ることです。そして、地元の人たちの結束力をより強固なものにします。地元の人たちは迎王祭典を非常に重視しており、故郷を離れている人たちも漁師たちもみな、祭典の前には戻ってきて参加します。

迎王平安祭典の由来
東港東隆宮

東港東隆宮

東港東隆宮では主神に「温府千歳(おんふせんざい)」を祀っています。これは温王爺(おんおうや)とも呼ばれ、もともとは唐の時代に進士の地位にあった人物で、全国奉行に出かけた際に遭難し、命を落としてしまいました。その後、福建、浙江地方の沿海を往来する船舶を見守る神様として扱われるようになりました。1706(康熙45)年に東港崙仔頂(現在の鎮海里)で海難事故が発生した際には、一晩のうちに大量の材木が福建地方から流れ着きました。その上には「東港温記」と書かれていました。信者たちはこれを神意として受け止め、ここに寺廟を建て、温王を祀ることにしました。また、1894(光緒20)年には、東港で津波が発生し、東隆宮は波にのみ込まれてしまいましたが、この時、温王爺は「浮水蓮花」の洞窟に新しい寺廟を建てるようにと指示を授けました。これが現在の東隆宮の場所になります。そして、1763(乾隆28)年に道士が福建から東港を訪れた際、住民たちが疫病に苦しむ姿を見て、福建一帯に伝わる疫病を追い払う儀式を伝授します。これが後に東隆宮の「迎王祭典」となりました。

琉球郷三隆宮
琉球郷三隆宮

三隆宮は小琉球の本福村の南端に位置します。池府(ちふ)、呉府(ごふ)、朱府(しゅふ)といった三つの姓をもつ王爺を祀っています。一般的には「三府千歳(さんふせんざい)」と呼ばれています。三隆宮の由来は、清朝時代の1736(乾隆初)年に福建から陳明山が携えて持ってきた「三千歳王爺」を祀っていることに由来します。陳明山は小船で小琉球に到着し、ここに簡素な廟を建てました。それ以来、島の住民たちは悩み事や困り事があるとここを訪れ、神様に相談するようになりました。霊験あらたかな寺廟と言われ、線香の煙が絶えません。現在も漁師たちは海に出る前に必ずここを訪れ、ご加護を祈ります。

迎王祭典のイベント

迎王平安祭典は合計七泊八日間にわたって行なわれ、三年に一度催されます。牛年、龍年、羊年、犬年に当たります。毎回、迎王祭典の日程は神様にお伺いを立ててから公表されますが、大体、新暦10月あたりに催されることが多いです。

迎王祭典のプログラム

東港東隆宮、小琉球三隆宮、南州渓洲代天府で催される「迎王平安祭典」の手順はほぼ同じです。大まかな流れは下記の13項目に分かれます。「角頭の職務交代」、「王船の製造」、「中軍府の安置」、「進表」、「代天府の設置」、「請王(王爺を迎える儀式)」、「過火安座(火渡り、安置)」、「出巡繞境(集落内を練り歩く儀式)」、「祀王(王爺を祀る)」、「遷船繞境(船を移動させ、集落の中を練り歩く儀式)」、「和瘟押煞(疫病を鎮める儀式)」、「宴王(王爺との宴の儀式)」、「送王(王爺を見送る儀式)」

1.角頭の職務交代

東港東隆宮の王爺の神輿を担ぐチームは、七人の「角頭(親分)」によって分かれています。セクションごとに抽選(王爺を見送った後、三日後に各角頭がくじを引く)があり、次回、どの角頭がどの千歳爺の責任者になるのかを決めます。小琉球の三隆宮にはこれがなく、各チームが担ぐ神輿は決まっています。

東隆宮の七人の角頭(親分)による神輿チーム

東港にある東隆宮では迎王祭典の中、古い笠をかぶり、チームごとに異なる色の「轎班服」を着た神輿チームを目にすることでしょう。「七角頭(七人の親分)」は世襲制で、迎王祭典では、子供も轎班服を着ているのを目にするはずです。

東隆宮の迎王祭典では、代天巡狩千歲爺が5名祀られています。これに中軍府、温府千歳などが加わり、計7名の神様となっています。7名の千歳爺の神輿と王船の船具は、7名の角頭(親分)の神輿チームがそれぞれ請け負います。各千歳爺を表す色はそれぞれ異なり、大千歳は黄色、二千歳はピンク色、三千歳は黒色、四千歳は緑色、五千歳はパープルグレー、中軍府は白色、温府千歳は青色となっています。

2.王船の製造

迎王祭典の二年前から王船の製造はスタートします。

3.中軍府の安置

中軍府を安置する儀式は、神界がすでに平安祭典の準備階段に入ったことを意味します。迎王祭典の2年前からその年の中軍府が訪れ、王船が正式に製造され始めます。最初にその年の中軍府が安置され、王船の建造を監視します。

4.進表

東隆宮の平安祭典には、清国時代の祝典儀式「進表」が残っています。これは迎王大科年(干支が牛、龍、羊、犬に当たる年)の旧暦6月に催されます。東隆宮に祭壇が設けられ、大総理と各レベルの総理が集落の人々を代表し、頭を下げて跪き、申し文を読み上げます。天河宮の代天巡狩千歳爺が地域を清め、除疫のために降臨することを祈ります。

5.代天府の設置

代天巡狩の千歳爺が皇帝からの命令で「按察」という地位に着き、一時的に逗留する場所を「代天府」と呼びます。代天府は王爺を招く三日前に設置され、東隆宮、三隆宮の正殿に設置されます。正殿内には「代天巡狩」と書かれた織物が掛けられ、関係者以外は立ち入り禁止となります。儀式に関係する実行スタッフのみ、入ることができます。

6.請王(王爺を迎える儀式)

「請王」とは迎王平安祭典が正式に始まったことを意味する儀式です。代天巡狩の千歳爺は船に乗って訪れ、船に乗って去っていきます。このため、儀式はすべ海辺で執り行なわれます。参加する神輿や陣頭(神様に扮した人たち)は列をなし、全員で海辺に集結します。神輿チームの代表は御神籤をもって海の中を入ったり出たりし、千歳爺の到着を待ちます。その後、その年に招く千歳の姓氏を記し、訪れた際には爆竹や銅鑼を鳴らし、王爺を迎えます。

帥旗:大千歳の幟

大千歳を海に呼ぶ当日は、大千歳の氏名を確認し、すぐに「帥旗」という幟にそれを記します。「奉玉旨代天巡狩某王駕」と書かれた「帥旗」は、大千歳の神輿にずっと付いて回ります。長い巡礼の列の中で神輿の後ろに高く聳える「帥旗」が見えたら、それが大千歳の神輿であることが確認できます。

逡港脚

小琉球には島特有の迎王儀式があります。神輿をのせた50艘の漁船が大福漁港と白沙観光埠頭に集結し、島を一周します。各海岸と港の平安を祈り、また、代天巡狩五府千歳のご来臨を祝います。

7.出巡繞境(集落内を練り歩く儀式)

王駕出巡(王爺が集落内を練り歩く)という儀式は、代天巡狩(天に代わって集落を巡視する役目)の神威が発揮される儀式です。つまり、厄除けを意味します。小琉球三隆宮の王爺が集落を巡る際には、民衆は路上で列をなして跪き、神のご加護を祈ります。王爺は「放告」と書かれた立て札を掲げ、野を彷徨う悪霊に濡れ衣を晴らす機会を与えます。

各地を訪れ、郷土料理を味わう

王爺が集落を練り歩く期間、小琉球の各家庭では神輿チームのために飲み物や軽食を用意し、神輿を担ぐ人たちの飢えや渇きを癒します。しかし、これは持ち帰ることは許されません。大千歳への尊敬の念を示すもので、迎王祭典における小琉球特有の民俗風習です。

攔轎喊冤(神輿を止めて、無実の罪を訴える)

王爺が集落を練り歩く際、人々の中には途中で神輿を止めて無実の罪を訴える人たちもいます。この時に大千歳は道路そばに立ち止まり、事に当たります。

8.過火安座(火渡り、安置)

王爺を迎える儀式の後、「代天巡狩(天に代わって集落を巡視する役目)」である千歳爺は集落を練り歩き、その後、代天府へと進みます。安置される前には、火渡りの儀式が行なわれます。この儀式では5つの方角に材木を積み重ね、これを燃やし、王令と王轎を清めます。東隆宮で迎える千歳爺は5名おり、またの名を「五王火」と言います。神の火によって材木が燃えて、木炭になった後、長い竹竿で平らにし、塩と米をまきます。道長がこうした儀式を執り行ない、火渡りする神輿チームおよび信者に神様のご加護があるように平安を祈ります。続いて、各千歳の神轎は焼いて赤くなった木炭の上を順に踏み、千歳を代天府へと送り、安置させます。

9.祀王(王爺を祀る)

王爺を迎える儀式には、必ずベジタリアンの食べ物をお供えする祭壇が設けられます。王爺が安置されてから、朝晩必ず一度行なわれ、王爺がこの地を離れるまで続きます。これは地元の人たちの代天巡狩である千歳爺に対する尊敬と信頼の念を表しています。

10.遷船繞境(船を移動させ、集落の中を練り歩く儀式)

船が造船所から運び出される儀式は、王爺を見送る前日の午後に催されます。船を運び出すのには、沿道で厄や疫病を追い払う目的があります。追い払うのと同時に、この地区の厄や悪霊、災いを持ち去ります。船が運び出される際、大きな王船が陸上を進みます。沿道の各家庭ではお供え物や香呂を準備し、代天巡狩千歳およびその部隊の将軍の神様が地域を守ってくれることに感謝とねぎらいの気持ちを表します。東港では紙で作られた身代わりの人形も準備され、家庭内の厄を払い、運勢が良い方向に変わるように祈ります。身代わり人形は悪い運を持ち去ってもらうためのもので、これを千歳爺に託します。

11.和瘟押煞(疫病を鎮める儀式)

迎王祭典の期間、代天巡狩である千歳爺は集落を練り歩き、厄を鎮め、悪霊を追い払います。王爺を見送る儀式の前日晩には王船で法会が行なわれ、厄払いの儀式が催されます。もし、大きな厄や手強い悪霊で厄払い儀式の効果がない場合は、伝統的な打楽器による演奏で追い払います。道士は作法に則り、疫病や悪霊を王船に押し上げ、千歳爺とともに天の河を渡ってもらいます。これにより地域に平安がもたらされることが平安祭典の最終目的です。

12.宴王(王爺との宴の儀式)

千歳爺の神輿が戻っていく儀式(王爺を見送る儀式)の前日晩には代天府内で満漢全席の盛大な宴が催されます。これらは千歳に味わってもらうためのもので、千歳の辛苦を労い、感謝する意味が込められています。

13.送王(王爺を見送る儀式)

夜明けになると、各レベルの総理は千歳を神輿に載せ、王船と一緒に海辺へ赴き、王爺を見送ります。王船が海辺に到着すると、七人の角頭(親分)が率いる神輿チームと東隆宮のスタッフが金紙の入った袋を一つずつ王船に積み上げます。準備がすべて整うと、水路が開かれ、大千歳が神籤を引いて一般の人々に感謝の意を述べ、別れを告げます。時間になると、錨が仕舞われ、爆竹が鳴り響きます。王船が燃やされ、天の河へと見送ります。

王船添載

「添載」とは代天巡狩の千歳爺が天に戻る途中、三食を心配しないで済むように願う儀式です。また、今後三年間この地域に平安がもたらされ、信者たちが衣食住足りて暮らせることを願う儀式でもあります。

三十六省份灯

三十六省份灯とは迎王祭典時に王府の舞台両側に掛けるもので、主な目的は代天巡狩である大千歳が巡視する範囲が全地域におよぶことを意味します。

8月
恆春古城国際豎孤棚観光文化活動

恆春の年中行事、皆で棚登り(搶孤)に参加し、中元節を祝う

恆春棚登りバナー

恆春の「搶孤(ごうこ)」(棚登り)と「豎孤棚(じゅっこほう)」の活動は、中元節特有の民俗文化活動です。もともとは生活困窮者を救済するために、中元節の普渡(うらぼん)供養の後に用意された豊富な供物を、「搶孤、豎孤棚」という方法で配り、貧しい人々と分かち合うために始まりました。

この習俗は百年以上の歴史があります。現在、人々の生活環境が改善されたことを受けて、恆春鎮役場は、この歴史的な意義を持つ民俗文化に改良を加え、面白さと挑戦性を兼ね備え、さらに恆春古城の観光推進にも役立つ複合文化活動として刷新しました。例えば、時にはストリートパレード、写真コンテスト、子供向け棚登りなどのイベントも合わせて開催されます。

主催:屏東縣恆春鎮役場 08-8881311
関連情報:屏東縣恆春鎮役場Facebookファンページにてご確認ください。

恆春の棚登り

棚登り(豎孤棚)

棚登り活動の主な精神は「先人の『人が飢えれば我が飢える』という、慈悲深く、優良な伝統の継承」です。目的は「信心深く謙虚で、強靭な体を持つ勇士の育成」とされています。毎年、旧暦7月15日の中元節の夜、縁起の良い時間に、恆春鎮の東門古城外側の広場で行われます。各地の勇者が自由にチームを組んで参加でき、参加資格は18歳以上です。チームの人数、参加チームの総数制限、競技規則、入賞者の賞金配分などの詳細は、年によって異なります。主催者の規定に従う必要があります。

現在の孤棚の構造は初期のものとは異なります。初期の方法は、恆春城内の四つの古城を象徴する**三丈六(約10.8m)**の長さの原木四本を立て、原木には滑りやすい牛脂が塗られ、下には事故防止の防護ネットと細砂が敷かれていました。原木の上に孤棚を組み、孤棚の頂上には錦旗が立てられ、最初に旗を獲得したチームが優勝でした。

現在では四本の原木柱が**三十六本**に増やされ、参加チーム数も大幅に増えました。鎮役場は恆春以外からも広く参加者を募っており、海外からのチームも参加して競い合うようになり、活動の見どころとニュース性がさらに向上しています。棚登りは、チームワーク、登攀技術、そして体力という挑戦を試すものであり、知力と体力両方を兼ね備えてこそ勝利することができます。(画像提供:2020恆春古城国際豎孤棚観光文化活動Facebookファンページ)

恆春の搶孤
搶孤(ごうこ)

「豎孤棚」と比較すると、「搶孤」ははるかに簡単で、個人で手軽に参加でき、事前の申し込みも不要です。活動時間内に主催者が用意した供物を書いた紙を拾い、その券を交換所で景品に交換します。

現在改良された搶孤の方法は、普渡後の供物をそれぞれ紙に書き、プラスチック管に入れて高い場所から撒き、一般市民がそれを奪い合うというものです。この改良により、実物の供物を奪い合う過程で市民が誤って怪我をするのを避けられる上、供物が群衆に踏みつけられて資源の浪費を防ぐことができます。

地域文化財産

大鵬湾はかつての軍事上の要衝であり、時代の移り変わりと歴史の足跡を証明する

恆春搶孤横幅
大鵬キャンプ

日本統治時代末期からずっと軍事区域であり続け、敷地内の軍事建築は日本統治時代と国軍駐屯時代を経ており、家屋、屋根瓦、地下道、管制塔、見張り所など、注意深く観察すると、二つの時代における異なるスタイルを区別することができます。旧レストランの特殊なヒノキの木造骨組みは、日本統治時代の多くの建築物では珍しく、良好に保存されており、近くの海域や空域と相まって独特の景観を形成しています。

大鵬キャンプの日本統治時代の軍事施設および建物―本部連、莊敬楼、旧レストラン、東弾薬庫、西弾薬庫―は、昭和12年(1937年)に日中戦争が勃発した際、日本軍が台湾各地で積極的に推進した南進の主要基地としての軍事建設の一環です。東港での各種軍事工事には、大鵬湾の海軍航空隊および海軍第61航空場東港支場が含まれ、キャンプ全体は昭和15年(1940年)に完成しました。

大鵬キャンプ歴史建築の範囲

歴史建築の範囲は五棟あります。本部連、莊敬楼、旧レストラン、東弾薬庫、西弾薬庫です。地図の番号をクリックして、各建築物の特徴をご覧ください。

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歴史建築の地図
大鵬湾の旧日本軍水上飛行機整備工場
南棟(旧レストラン)、北棟(中正楼)

大鵬湾はかつて、日本植民地時代末期に設置された海軍軍事基地「東港飛行場」として使用されていました。台湾屏東の南端地域に位置し、当時の南進政策によって形成された軍事配置の歴史を経験しており、日本統治時代における日本の海軍軍事と南進政策の歴史的プロセスを十分に示しており、非常に高い歴史的・文化的価値を持っています。「旧日本東港海軍航空隊発動機調整場」および「旧日本東港海軍航空隊木具機關工場」は日本統治時代に建設され、日本海軍東港水上飛行場内の飛行機整備工場でした。両棟の建物屋根の木構造は、第二次世界大戦以前から発展し始めた木構造技術を採用しており、特殊な構造処理方法で木材を組み上げ、大スパンの屋根組みシステムを形成しています。これは、日本植民地戦争時代における木材節約と大スパン空間の木造建築の構築形式と技術を示しており、美学的および科学的な価値を持っています。

当時、設置された二つの水上飛行機整備工場は、三つの格納庫の隣にそれぞれ位置していました。「発動機調整場」は現在の南棟整備工場であり、「第一格納庫」の後方にあります。「第三格納庫」の後側は「木具機關工場」であり、現在の北棟整備工場です。1945年(昭和20年)以降、このキャンプは順次、空軍参謀学校、空軍幼年学校、空軍防砲司令部基地訓練センターとして使用されました。元々は兵舎として使われ、その後レストランに改築されました。これは平屋建ての建物で、壁はレンガ造り、屋根は木構造でした。幼年学校が廃止される前、南棟整備工場は学生レストランとして、北棟整備工場は集会所および多機能教室として使用されていましたが、現在は使用が規制されています。1983年(民国72年)1月にキャンプが移転し、2003年(民国92年)に大鵬湾国家風景区が設立され、2004年(民国93年)に大鵬湾国際開発株式会社に経営が委託されました。その後、北棟整備工場は鍾乳石の保管倉庫として、南棟整備工場は他の会社に賃貸され、軽飛行機事業に使用されたこともありましたが、現在は使用が規制されています。

建物の外観は洗い出し仕上げの壁面とトタンの傾斜屋根で、内部構造は木構造です。屋根組みはトラス式を採用し、桁(けた)には単行桁と双行桁があり、大スパン空間を形成しています。柱の底部はヒンジ接合で、南棟、北棟ともに平屋建てで、材料はレンガ、トタン、木材、鋼材です。

大鵬湾の旧日本軍水上飛行機整備工場
LastUpdateDateTitle:2026/02/03
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